『日の名残り』『私たちが孤児だったころ』で高い評価を得た作家が送る、感動的な小説。心に残る友情と愛の物語の中で、世界と時間を巧みに再創造してみせる。 現在31歳のキャシーは、イギリスの美しい田園地方ヘールシャムの私立学校で、子ども時代を過ごした。そこでは子どもたちは外界から保護され、自分たちは特別な子どもで、自分たちの幸せは自身だけでなく、やがて一員となる社会にも、非常に重要だと教えられていた。キャシーはこの牧歌的な過去とはずいぶん昔に決別したが、ヘールシャム時代の友人二人と再会して、記憶に身をまかせることにする。 ルースとの交友が再燃し、思春期にトミーに熱を上げた思いが恋へと深まりはじめる中、キャシーはヘールシャムでの年月を思い返す。外界から隔絶された穏やかさと心地よさの中、少年少女がともに成長する幸せな場面を、彼女は描写する。だが、描写はそんな場面だけではない。ヘールシャルムの少年少女育成のうわべに隠れた、暗い秘密を示唆する不調和や誤解。過去を振り返ってはじめて、3人は自分たちの子ども時代と現在の生き方の真実が見え、それに対峙せざるを得なくなる。 『Never Let Me Go』は単純に見える物語だが、そこに徐々にあらわにされていくのは、驚くべき深さで共鳴する感情だ。カズオ・イシグロの最高作にあげられるだろう。
静かだが揺るぎない感情の交錯
「事態の全貌が明らかになった時、読者は血も凍るような恐怖感を覚えることになる。魂の奥底にまで届くような衝撃がある」。脳科学者の茂木健一郎は、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』の書評でこのように書きました。あらすじに注目した書評としては、あながち的外れでもないのでしょうが、私個人がこの作品に抱いた印象は大きく異なります。 運命を強制された人々の心の中にあっても、静かでも途絶えることのない感情の動き、それらをイシグロならではの抑制された文体で静謐に描き出した作品。私はそのような印象を受けました。三人の主人公、キャシー、ルース、トミーが共に過ごしたヘールシャムという施設、自らの手で選び取ることのできない運命、これらはあくまで舞台背景であって、この作品の本質を成すものではないように思われます。 他者の手で強いられた運命の中においてさえ、三人の心の内では、喜び、怒り、悲しみ、あらゆる感情が揺れ動きます。それは、三滴の雫が静かな水面に発生させた同心円の波が広がり、交錯して増幅し、すれ違い、そして去っていく様子が想起されます。 海辺の町クローマ(イングランドのLost Corner:遺失物置き場)は、この作品において極めて重要な土地ではないでしょうか。トミーがキャシーのために”Never Let Me Go”が収録されたカセットを探す町、ルースが自らの母親を探す町、ヘールシャムで育った者達が異なる未来を探す町。そこには何も見つからないかもしれない、私達の運命は既に決定されているのだから、それでもそこを訪れない訳にはいかない。 この作品でのイシグロは、これまでの執筆活動の頂点に達したように見受けられます。今後彼は、技術的にも内容のうえでも新しい試みを始めることになるのでしょうか。不安と共に期待をもって待ちたいと思います。
ときにはヘミングウェイの代表作である、漁師の話を読んでみてはいかがだろうか。ヘミングウェイは戦後、『Across the River and into the Trees』(邦題『河を渡って木立の中へ』)などで不評を買い、作家生命の危機に立たされたが、『The Old Man and the Sea』(邦題『老人と海』)によって作家としての名声を盛り返した。1954年にノーベル文学賞を受賞するに至ったのも、この作品によるところが大きい。(かつては、「ノーベル賞を受賞した作家は、その後ろくな作品を書けない」と考えていたヘミングウェイだったが、このときは、喜んで賞を受けている) それから半世紀が過ぎた今でも、彼の受賞は納得いくものだ。キューバ人の老漁師とマーリンの知恵比べ(あるいは、腕とヒレの対決と言うべきか)の物語は、「肉体とモラルの闘い」という、ヘミングウェイの得意とするテーマである。しかし、後に彼の作品をだめにする大きな要因となる、「銃に象徴される男らしさ」を演じるには、サンチャゴは年齢的にも肉体的にも無理がある。 「老人のほおには、熱帯の海に照りかえす陽光を浴びてできた、皮膚ガンを思わせる褐色のシミがあった。シミは、顔の横に、上から下まで点々と続いていた。手には半月状の深い傷があった。綱を使って大魚と格闘するためだ」 また、この作品でヘミングウェイは、かつて天下にその名をはせた、「瞬間」の映像を鮮やかにとらえるスタイルに戻っている。 暗くなる間際、大きな島のような海藻のかたわらにさしかかった。まるで大海原が黄色い毛布の下にある何かと戯れているかのように、明るい海の中で、海藻がゆらめいている。老人の細い綱に1匹のシイラがかかった。シイラは、海面に跳び出すと、残照を浴びて黄金色に輝きながら、体を反らせ、空中で身をくねらせた。 若き日のヘミングウェイがこの小説を書いていれば、おそらくサンチャゴは、しとめた大魚を港まで運び、著者自身が1935年ごろ好んでやっていたように、勝利を記念して写真を撮っていただろう。ところが、老人の釣り上げた獲物は、サメの群れに食われてしまう。港に着いたとき、残っていたのは骨だけだった。そしてとうとうラストシーンで、老人は床に伏し、わが身と創造主について考えるようになる。「老人はライオンの夢を見ていた」のだ。作品のいたるところに、芸術的寓意、あるいは経験から得られた寓意が漂っていると考えていいだろう。 何にしろ、『The Old Man and the Sea』が、ヘミングウェイの作品の中で、最後の「大魚」であることは間違いない。
コメントの投稿