スティーヴン・キングの『On Writing』(邦題『小説作法』)は簡潔で切れのよい作品だ。愛と皮肉を込めた自伝と、向上心に燃える小説家へ贈る厳しくも愛情こもった教訓という、2冊の本を合わせたような構成である。 回想部分は実に驚くべき内容で、無作法だった子どもが作家へと成長していく過程を克明に描いている。著者を苦しめたツタウルシ、おなら攻撃をしかけてくるベビーシッター、厳しい教師たち、ジャック・ロンドンの体験を上回る汚さの洗濯工場の仕事。これらを読むと、読者は若き日のキングのそばにいるような気分になる。このウソのようなとんでもない話は、キング作品を読み解く際の大きなヒントだ。そこにいるのは、かわいい声で人気のあったサンドラ・ディーンではなく『Attack of the Giant Leeches(邦題『吸血怪獣ヒルゴンの猛襲』)』のイヴェット・ヴィッカーズを気に入るような子どもだった。「すべての都市を食べてしまう怪物や、海から現れてサーファーを飲み込んでしまう放射性物体、頭が悪そうに見える黒いブラをつけた女の子たちが好きだった」 しかし、こと読書に関しては、困難なことであるにもかかわらず、あらゆる文学作品を読みあさることへの欲望に渇いていた。キングは「I Was a Teen-Age Graverobber」を発表する。トレーラーハウスに住んで家族を養っていた若かりしころ、高校の女子更衣室の清掃員として働いた経験にヒントを得て物語を書きはじめたものの、原稿を丸めて捨ててしまうが、それを作家である妻がごみ箱から拾い出す。そして、主人公である少女の設定を見直してみてはどうかという妻の助言を得て、さらに若くして死んだ、いじめられていた2人のクラスメートのことを思い出から掘り起こして、『Carrie』(邦題『キャリー』)を産み落としたのである。 キングは彼の人生と作品に関する意外な事実をいろいろ明かしている。『Misery』(邦題『ミザリー』)の誘拐犯、『Tommyknockers』(邦題『トミーノッカーズ』)の心を奪い去る怪物、『The Shinning』(邦題『シャイニング』の酔った小説家にとり憑く霊は、キング自身のコカインとアルコール中毒(彼によると、妻の援助おかげで克服したそうだ)の象徴だった。「もう1つ、あまり覚えていない『Cujo』(邦題『クージョ』)という小説もある」。ほかにも、大学時代のこと、命の危機にさらされたワゴン車衝突事故からの生還についても触れているが、話の焦点は常に、それらのできごとが作家としての職業にどのように結びついているかに置かれている。 キングは、作家に必要な「道具一式」を読者に提供している。たとえば、読書リストや執筆課題、修正した作品、金銭上の基本的なアドバイス、プロットと登場人物、パラグラフの基本構造、文学上のモデルなど。また、H・P・ラヴクラフトの難解な表現技法、ヘミングウェイの引き締まった文体、事実に基いて仕事をするグリシャムの信憑性、リチャード・ドゥーリングの巧みなわいせつ表現、ジョナサン・ケラーマンの断片的な文から学べることがらを教えている。なぜ言語感覚の鈍い対話劇が『Hart's War』をだめにしているか、エルモア・レナードの『Be Cool』がなぜ癒しの作品となり得るかを、キングは解説している。キングは作家であるだけではなく、正真正銘の教師でもあるようだ。
プロの作家の感性や生き方がわかる。
3章の文章の寄せ集めで、第1章の自叙伝はファン以外はどうでもよいでしょう。タイトル通りなのは、第2章と第3章です。 しかし、ちょっとわかりにくいかもしれません。アメリカでは、本書でも言及されているシュトランクの『The Elements of Style』という本が、すべての作家の基本必読書となっており、その上で、キングが話を展開しているからです。受動態や副詞の問題なども、この元の本の方に詳しく書かれています。会話については、キングがあえてこれを排して、セリフの写実性を重視しているのも興味深い点です。これらの、英語文体の問題が、全体の半分を占めています。 後半の、小説としての物語の構築は、キングのオリジナルです。が、リンダシガーに似て、潜在意識からいかに物語を読み出すか、が、論じられます。主人公と敵対者の双子関係などは、フロイト的にも重要な点でしょう。また、自分の作品を寝かして書き直すことの意義についても、経験的に述べられています。 で、日本の作家志望者に役立つか、というと、微妙です。知っての通り、アメリカの小説の構造は、会話とアクションによる進行に、関係節による回想説明が挟まるのが基本であり、関係節を持たず、時間順序のその場の深い描写で展開しなければならない日本の小説とは根本的に文章構造や物語構造が異なるからです。 とはいえ、プロの作家の文章に対する感性、物語として言葉につかむ方法、という点については、言語の問題を越えるところがあります。チンケな三流作家の表層的な文章読本などより、本質を捉えており、充分に読む意義があるでしょう。
『Franny and Zooey』(邦題『フラニーとゾーイー』)は、それぞれ別に発表された「Franny」(1955年)と「Zooey」(1957年)を1つにまとめた作品である。名門女子大で演劇や詩を学ぶグラース家の末娘フラニーは、過剰な自意識にさいなまれ、エゴの蔓延する世の中に吐き気をもよおし、デートの最中に失神する。心身のバランスをくずした彼女は、「ひたすら祈れば悟りが開ける」と説く「巡礼の道」という本に救いを見出そうと、自宅のソファーの上で子どものように丸くなって祈りの生活に入る。当然、家族にしてみれば、睡眠も食事もろくにとらない彼女が心配でたまらない。兄ゾーイーの懸命の説得もむなしく、フラニーの心はかたく閉ざされたまま。あげくの果てには、亡くなった長兄シーモアと話がしたいと言いだす始末。 そんな妹のために、兄の啓示を受けるべく、ゾーイーは久しぶりに兄の部屋に足を運ぶ。戻ってきた彼は理路整然とフラニーの過ちを指摘していく。「目の前で行われている宗教的な行為(母親はなんとかチキンスープを食べさせようとしている)に気づきもしない人間が、信仰の旅に出て何の意味があるのか」など、ゾーイーの口を借りて伝えられるシーモアの言葉にフラニーは…。 服装や言動の緻密な描写が暗示する登場人物たちの内面、すれ違っていく男女の心、フラニーが神経衰弱に陥っていくまでの心の動き、妹を救うためのゾーイーの奮闘、そして、死してなお絶大な影響力を持つシーモアの思想など、読みどころの多い作品。(小川朋子)
天才ゆえに寂しい子供時代を過ごした物理学者ジェーンは、普通のIQの子供が欲しかった。一大決心をして、自分のIQと中和するべく、おバカな精子を求めてフットボール選手キャルの「お誕生日プレゼント」に志願し、無事妊娠に成功。が、Nobody's Baby But Mine(原題)のつもりが、全うな倫理観をもつキャルの知るところとなり、結婚するハメに…。
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